千晶はロッカーの鏡でファンデーションと口紅を丁寧に整えた。

上司に仕事を振られる前に、残業三十分で切り上げてきた。

今日は彼氏とデートの約束があるのだ。

飲み会で知り合って付き合い始めて三ヶ月。
結構うまくいっていると思う。
大企業勤務のイケメン。

絶対に逃したくない相手だった。


バッグを肩にかけ、携帯電話を開く。

「仕事終わった今から向かうよ40分後に到着予定

メールを送信した。

いつも、退社時にメールを送り、何分後に待ち合わせ場所に着くかのめどを伝えるのが約束になっている。

彼は時間にルーズな女が嫌いだった。

前の彼女は遅刻癖があり、遅刻のたびに彼は怒り、デートのたびに喧嘩ばかり。

で別れたらしい。


実は千晶も時間にはルーズなほうだったが、今のところ頑張って約束の時間に遅れないようにしている。

彼に嫌われたくない一心だ。


携帯電話をぱちんと閉じてバッグの内ポケットにしまった。

内ポケットの中には他に定期券やマナーカードなどが入っていた。


マナーカードに手が触れ、千晶はちょっと嫌な気分になった。


数年前から国民全てが常時携帯することを義務付けられている、マナーカード。


マナーカード制度。


それは日本国民のマナー向上のために設けられたシステムだ。

マナー違反は国民間の相互観察により申告され、罰せられる。

申告の仕方はいたって簡単。

マナーカードは名刺大のプラスチック製で、白い本体に赤いボタンと青いボタンがついている。

薄い側面に、送受信用の窓が一つついている。


国民はマナー違反者を見つけたら、違反者に向かって赤いボタンを押す。


これだけで申告完了だ。

違反申告された側は、一回の申告につき、違反ポイント一点が付与される。

千晶は近頃なにかと違反ポイントをつけられてしまい、累積ポイントがだいぶたまってきた。

ポイントが一定以上たまると、罰金を払わねばならない。


めんどくさい世の中になったと思う。


だが今考えるべきはマナーカードのことではなく、デートに遅刻しないことだ。


千晶は急ぎ足で会社を後にした。

焦りながらも素敵な気分で駅の階段を昇った。
いつもより濃い目のメイク。
いつもより念入りなヘアセット。

いつもより短めのスカート。

彼は可愛いと言ってくれるだろうか。

付き合って三ヶ月、そろそろマンネリに気をつけなきゃいけない時期。
気合も入れないと。


その時ふと、前を昇っている若い女性の後ろ姿が目に入った。

千晶と同じくらいの丈のミニスカートを履いている。

階段で下から見上げると今にもパンツが見えそうである。


千晶は急に恥ずかしくなった。


私のスカートもやばいかもしれない。



思わずバッグでお尻を隠した。

そしてちらりと後ろを振り向いた。


これが、いけなかった。


後ろから昇ってくる中年男性と目が合った。

男性は足を止めると、不愉快そうに顔をゆがめた。


「見てねぇんだよ」


いきなり怖い声で言われて、しどろもどろに何か言い訳しようとした。


「え、いや、あの」


千晶の気弱そうな様子を見て、勝てると思ったのだろうか、男性はニヤリとした。

背広の胸ポケットからマナーカードを出すと、千晶に向けてボタンを押した。


バッグの中で、千晶のマナーカードがブルブルブルブル、と振動した。

(うわ、最悪!押すなよ、おっさん)

千晶はマナー違反者として申告されてしまった。

千晶の狼狽を見て、男性は痛快そうに笑みを浮かべている。


千晶はバッグの中から、こちらを非難するように不快に振動を続けるマナーカードを取り出した。


赤いボタンと青いボタンが、これまた不快にチカチカと点滅している。


赤か  青か


どちらかを選んで押せ、というサイン。

違反申告をされたら、即座に違反ポイントをつけられるわけでは、ない。

不当なマナー違反申告を防ぐために、違反申告された者にもチャンスは与えられていた。


自分の行いがマナー違反と認めるならば、赤いボタンを押す。

そうすれば違反ポイントが一つ付与される。


自分の行いがマナー違反だと思わないなら、青いボタンを押す。

青いボタンを押せば、違反申告は一旦保留となる。


保留となったマナー違反は、第一に当事者同士の話し合いで解決することが推奨されていた。

つまりこの男性と、千晶の行為がマナー違反であるか否かの議論をしなさい、ということだ。

議論の結果、男性が千晶の言い分を聞いてくれれば、男性はマナー違反申告を取り下げてくれるだろう。

男性は千晶にむかって、男性のマナーカードの青ボタンを押す。

これで申告は解除される。


だが頑なに取り下げを拒否された場合、そして千晶も納得がいかなかった場合、第二の手段として、マナー裁判を起こすことになる。

マナー裁判を申し立て、裁判所に千晶の行いがマナー違反かどうかを決めてもらうのだ。


千晶の手の中でマナーカードは振るえ続け、赤と青のボタンは点滅を続けている。


自分のしたことがマナー違反だなんて思えなかった。

赤ボタンを押すのはすごく悔しい。


だが時間がなかった。

青ボタンを押して、おっさんと喧嘩している暇なんてなかった。


彼氏は時間にルーズな女は嫌いなのだ。


千晶はクソッと思いながらも赤ボタンを押した。

癇に障る振動がようやく止まった。

満足げな男性がしたり顔で説教をし始めた。

「おじさんはね、嬢ちゃんのスカートの中身なんて興味ないんだよ。
のぞくつもりもないのに、勝手にのぞき扱いは心外だなぁ。
人様をいきなり犯罪者扱いなんて、マナー違反だろ?
そう思うだろ?
隠すくらいならミニスカートなんて履かなきゃいい。
自分勝手にそんな短いの履いておいて隠されたら気分わりぃよ。
これに懲りたら、もうこんな失礼なことしちゃダメだよ」


イラッとした千晶は慇懃にお辞儀をして

「どうも申し訳ありませんでした!」

そう言い捨てると駆け足で階段を昇り去った。

これでまた違反ポイントが増えてしまった。

そもそも青ボタンを押す人なんているんだろうか。
見知らぬ人と公共の場で口喧嘩なんてわずらわしいし、裁判なんてもってのほかだ、めんどくさい。

みんな千晶と同じように、どんな理不尽な違反申告でも、とりあえず赤ボタンを押しちゃうんじゃないだろうか。


千晶は気持ちを切り替えることにした。

今日は素敵なデートなのだ。


地下鉄の改札口を出て、地上出口に向かう階段を昇る。

今度は後ろを隠さなかった。
もうマナーカードは勘弁だ。


細く長い階段を昇っている途中、後ろから声をかけられた。

「ちょっと、あなた」

振り向くと、眼鏡をかけた痩せぎすの老女がこちらを見ている。

「え、わ、私ですか?」

千晶は怪訝顔で尋ねた。

嫌な予感がした。

「そうよ、あなた」

老女はにっこり微笑んだ。

そしてつらつらと小言を始めた。

嫌な予感は当たった。

「あなたそんな短いスカートはいて、パンツが見えましたよ。
まったくそんな汚いものを見せられて、私は不愉快でなりません。
短いスカートを履くなら、階段を昇る時は、お尻をかばんで隠しなさい。
それがマナーというものでしょう。
今のあなたはまるで露出狂ですよ」

先ほどの男性と言っていることが逆だ。

千晶はいら立ち続きでついかっとなり、甲高い声で反論した。

「隠すほうがマナー違反なんですよ!知らないんですか?」

老女は目を丸くした。
そして大袈裟にため息をつくと、首を横に振った。

「何を意味の分からないことを・・・
言葉だけでとどめるつもりでしたが、仕方ありませんね」

老女は腕に下げていた巾着袋から、マナーカードを取り出し、千晶に向けた。

「ちょ、やめてくださ・・・」

老女がボタンを押す。


ポチ


ブルブルブルブルブルブル


千晶のマナーカードが振動した。

「ああ、もうっ」

千晶は今度は何も考えず赤ボタンを押した。

(はいはい認めます、認めればいいんでしょう、私はマナー違反者です!)


「これで、少しは反省してくれますかしらね。
あなたのためなんですよ。
あなたは女の子なんだから、たしなみを身に付けないといけないの」

目を閉じてうんうんと頷いている老女を無視し、千晶は階段を駆け上がった。

地上出口を目指して。

もうどうでもいい、マナー違反者とでもなんとでも呼べばいい。


今日はデートなんだから。

彼を一目見れば、こんな気持ちも全て吹っ飛ぶに違いない。






翌日。

千晶はげっそりした気分で出社した。


結局、彼とは会えなかったのだ。

急に仕事が入ったとのことでデートはキャンセルになってしまった。

昨日は最悪の日だった。
彼のために全ての理不尽を飲み込んだというのに。


会社のデスクに座ると、部長に「おっ」と声をかけられた。

女子社員全員に嫌われてるエロおやじだ。

「あれ、今日ズボンなの?
何そのだぼだぼズボン。
昨日の格好のほうが可愛かったよ〜」

昨日の格好を覚えているなんて。

女子社員の服装をよく見ているな、とあきれ返りつつ、千晶はてきとうに返事した。

「いや、こっちのほうがラクなんで」

ミニスカートには懲り懲りだった。

この格好ならば、誰にも文句は言われないだろう。
部長が千晶の返答に食らいついた。


「ラク!?
ちょっとちょっと、若い子がラクとか言ったらダメだろ。
俺、若いのに体の線隠す女の子って許せないんだよね〜。
ウェストゴムだから体型気にしないでいくらでも食っちゃう!みたいなのね、勘弁してくれよって。
若いのに体型に気を使わないってマナー違反じゃない?
だってそういう女見ると不快だもん俺。
ラクとかなんとか言ってるとボタン押しちゃうよ〜」



「えっ?」



千晶が止める間もなく、部長は手にしたマナーカードのボタンを押していた。


大嫌いな大嫌いな、今一番聞きたくない振動音が、千晶のバッグの中で鳴り響く。


「信じられない!なんてことするんですか!」


「あ、ごめんごめん本当に押しちゃった、今解除するから」


完全に頭に血の上った千晶の耳には、部長の言葉など聞こえなかった。


バッグの中から、マナーカードに良く似た、だが色が白ではなくピンク色のカードを取り出した。


部長に向けて赤いボタンを押す。


昨日からの怒りを全て込めるように、おもいっきり強く。

部長の上着のポケットが振動した。


部長は震えている自分のピンク色のカードをつまみ出した。


それを高く掲げてひらひらさせる。



「おっと、セクハラカードで反撃されるとはな。
またセクハラポイント溜まっちゃったよ。
かみさんに怒られちゃうなぁ〜」


そしてハッハッハと笑った。


その笑い声を聞いた千晶は、がくりと肩をうなだれた。

憔悴しきって、デスクに突っ伏す。

深々とため息をついた。


「もういや、こんな国・・・」


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