ニーチェであそぼ。

本当のことが知りたくて
ウソっぱちの中
旅に出る


「ニーチェってどんなこと考えた人?」を、初心者向けに極限まで分かりやすく書きました。
分かりやすさ重視のため独断とかはしょりがすごいです。
もっと正確なニーチェを知りたい人は真面目なサイトを探すんだ。


1:道徳の系譜学

 【疑問】「善悪ってなんなのさ。誰が決めたのさ」
 
 【答え】「復讐とかはらいせとか、そんな感じ」


「人をなぐること」は、どうして、「悪」なのだろう?
みたいなことを、ニーチェは考えました。そして、こんな答えを、導きました。

 〜善悪誕生の図〜

昔々、まだ、喧嘩の強い人が、一番えらかった頃。

なぐられた人が、なぐり返すことができなくて、くやしまぎれに、こう言ったそうな。

「おまえは、”悪”だー!」

そして、自らを”善”と名乗ったそうな。

「俺は、善だ!喧嘩では負けたけど、善は、悪より、偉いんだぜぇ?だから、喧嘩では負けたっぽいけど、本当は、勝ってるんだぜぇ?」

喧嘩の弱い人たちは、これを聞いて、みな口々に、「俺は善だ。えらいんだ」と、言い始めました。

こうして、喧嘩の強い人が、一番えらい時代は、終わりましたとさ。
「なぐらない人」が「えらい」時代が、やってきたのでした。

めでたし、めでたし。



ニーチェの憤り:「なんだよ、それ、てきとーくせぇぇぇ!!!ちっとも、偉くないじゃんかよ、善! ちきしょー、だまされた!」


2:ルサンチマンと力への意思

 【疑問】「なんで負けた人は、俺は善だ!とか、言い出したわけ?」

 【答え】「勝ちたいからに、決まってるじゃん」


で。

この「勝ちたい」気持ちを、ニーチェは「力への意思」と呼びました。

そして弱者の「力への意思」は「ルサンチマン」という形を取ります。

ルサンチマンとは「嫉妬」とか「恨み」とか微妙な訳語しかありませんがつまりは、
同じ「勝ちたい」でも、

殴り合いの喧嘩に勝つために、強くなって正々堂々勝負するのではなく、

勝負から逃げて、

「殴ること=悪」という新たな価値観を捏造することで勝負せずに勝つ。



そんな卑怯な攻撃に出ずにいられない心理のことです。


3:神は死んだ

 【疑問】「ちきしょー、善にはだまされたぜ。あれ、善だけか?ウソをついているのは」

 【答え】「ちがう、善だけじゃない。全部が所詮は一解釈なんだ」



 人を殴ること=悪

こういう等式があったとします。

この等式は、正解では、ありません。
ただ、殴られた人が、それでも自分が勝つために、自分勝手に解釈しただけのことです。

 善人=本当は負けたのに負けを認めたくない弱い人

こういう等式があったとします。

この等式は、正解では、ありません。
ただ、「善」が誕生した心理的プロセスを、ニーチェがこのように解釈してみただけのことです。

この世界には正しい解など存在しない。

ただ、人の数だけの解釈(認識)が、あるだけ。

神様(ぜったい正しいもの)なんか、いないんだ。


こうして、神は、死にました。

4:永遠回帰

 疑問】「世界は欺瞞だらけで人間なんて弱虫で最低だな。さてどうしようか」

 【答え】「まいっか」


ニーチェは、自分に都合のよい解釈を積み重ね、解釈という色眼鏡を通してしか人生を享受できない人類を叱りました。
ウソっぱちが、ほんとうのことを、おとしめている。
それをなんとかしようとして編み出されたのが、永遠回帰思想です。

 もしこの人生が永遠に繰り返されるとしたら?

魂の無限ではなく、人生の無限です。

キリスト教では、人生は有限です。
死んだら人生は終わります。良い魂は天国に行けますし、悪い魂は地獄に行きますけど。
「この人生」は、死んだら終わりです。

キリスト教は「この人生」を断罪し、誹謗し、汚しているとニーチェは言います。

ニーチェが仮定したのは「この人生」の無限です。

彼は、人類にそして自分自身に、

「もし人生が永遠だとして、君に天国が約束されていないのだとして、それに耐えられますか?」

と、挑戦的に問いかけます。

1977年に生まれて2001年にホームページにこんな文をアップしている、ここにいる$..$ひつじさんは、死んでも、また、1977年に生まれて2001年にホームページにこんな文をアップしなければならないとします。

ずーっと、ずーっと、この人生を、繰り返さないといけないんだとします。

弱者はどんなに善行を積み苦しみに耐えても、天国には行けません。

だって弱者は本当は善人などではないのですから。
弱者はただの弱者なのですから。

善もない悪もない、天国なんかない。


ただ殴られて痛いという現実だけが永遠にあるとして。



耐えられますか?





ニーチェは、「ja(はい)」と言います。




喜んで、何度でも繰り返しましょう、と。

吐き気がするほど弱い、人間たちの人生は、それでも、永遠に繰り返したい、と思えるほどに、美しいものなのだ、と。

解釈など不要ではないか?

世界は既に、完璧である。ただありのままの世界を生きればいい。遊ぶ幼子のように。


追記 2005.11.16

なぜか四年ぶりにニーチェ追記。
上の文も少し書き直しました。
説明不足な部分を補ったり、たとえば肝心のルサンチマンの記述をすっとばしていたので書き加えたりしました。
ここから先は私の個人的なニーチェ語りです。
ニーチェってば根っから真面目なキリシタンなんだから編
ニーチェとは善が非常に優秀な武器であることを発見した人なわけですが。

特筆すべきは、その発見にむっちゃくちゃ怒ってる、ということです。
これは明らかに道徳が不道徳(嘘つき・卑怯・ルサンチマン)であることに怒ってるんですね。
「ふしだらなり、善!」
って。
ここらへん、さすがクリスチャンだなぁ、と。
真面目だなぁ、と。
私なんか「道徳の系譜」読んだとき、善の有用性・利便性に感激してしまったクチですから。
「うわちょー便利じゃん、善。なんにでも勝てるオールマイティーカードー!」
って。
ニーチェが哲学者なのか文学者なのかはよくわからないのだけどあのね編
ニーチェは哲学者として世界がバーチャルであることを看破し
(=道徳の系譜・神は死んだ)、

詩人としてこのバーチャルな世界を受け入れたのだと思います。
(=永遠回帰)

言い換えれば、ニーチェ哲学の限界を、文学(アート)が補ったのではないでしょうか。

「ツァラツストラはかく語りき」は、文学によるニーチェ哲学の治癒の書ではないでしょうか。





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