月の目
(カクヨム等にも転載
https://kakuyomu.jp/works/1177354054888135980)
駅を出て空を見上げると、満月が異様に大きかった。
僕はびくりとして目をそらした。満月のあの丸みが嫌だ。あの丸みは肉体だけが持つたぐいの丸みだ。月が石の塊とはとても思えない。あれはまるでからだの一部だ。
白くて丸くて、たとえば目玉。
いつか満月の上の端から、黒目がぎょろりと覗きそうで恐ろしい。
こちらが見てるときは、ああやって白目を剥いて死んだふりをしている。
しかしこちらがあさっての方を向いた隙に、隠れていた黒目が僕を見つめる。
いつもじっと観察している。
僕はふっとため息をついた。何を馬鹿げたことを考えているのか。こんなに気が滅入っているのも、これから三輪綾子に会いに行くためだろう。
彼女はもう一ヶ月も高校を休んでいる。
その間たまったプリント類を彼女に届ける役目を、今朝突然、担任に言い渡された。理由は理不尽極まりない。彼女が休んで一ヶ月目の今日、僕がたまたま日直だったから。
「部活があるから」と断ったが、「部活が終わったあとでいいから」と言われた。そばで聞いていた他のクラスメートたちが同情の目を僕に向けた。しかし明らかに、同情以外のものも混ざっていた。好奇だ。
「平井、まじで行くの?」
「しょうがないだろ」
「明日、どんなだったか教えろよ」
僕は偵察係か。他人事だと思って。
だが彼らの気持ちが分からないでもない。僕だって、三輪の家に行くのが僕以外の誰かだったら、興味津々で明日の報告を楽しみにしているところだろう。
三輪の休む理由を、先生はただ病気のためと言っている。だがそれが「心の病気」であることは、皆知っていた。
なんでも噂では、彼女は一ヶ月前…。
いや、やめよう。思い出せばますます気が滅入るだけだ。
先生にもらった地図を、月明かりを頼りに確認しながら歩いた。
駅前を過ぎてしばらくは、帰宅するサラリーマンやOLたちの一群に混ざって大通りを歩いた。途中でわき道にそれ、一群から抜けた。
途端に周囲から人がいなくなった。夜がずんと深まった感じがした。
しばらく行くと、見える範囲に店らしきものがなくなった。一戸建てやアパートなど、住居だけが所狭しとずっと立ち並んでいた。
静かだった。家々の無言は僕を圧迫した。僕は夜の住宅街が嫌いだ。住居はいつも、住人以外の人間を警戒し、息をひそめているように感じる。家とは秘め事を隠す場所なのだ。まるで自分が秘め事を暴こうとする侵入者であるかのような、後ろめたさを感じる。
家々の敵意が侵入者である僕の肌に突き刺さる。僕はびくびくしながら歩いた。
ああ駄目だ。感受性が変な方向に研ぎ澄まされている。こういうことはたまにある。でも今夜は特別に変だ。三輪のせいか、満月のせいか。
彼女の家が見つかった。時計を見ると駅を出て十分しかたってなかった。もっとずっと長く感じた。
立派な家だった。レンガ張りの洋風家屋で、近隣の家の倍は大きい。感心して眺めていたが、二階を見上げて固まった。
二階の窓に、満月が鮮やかに映し出されていた。
僕はその窓を凝視した。
本物の月と見紛うほど、はっきりとした像だった。家の外見よりなにより、僕はその満月から目が離せなかった。
背後の空に月。目前の窓に月。
二つの月に挟まれて、僕は呼び鈴を鳴らした。
三度チャイムが鳴ったところで、母親が出た。
「はい」
怯えたようなか細い声だった。そのか細さに、逆に僕が怯えさせられた。
「夜分遅くすみません。三輪さんと同じクラスの平井と申します。学校の配布物を届けるように言われて来ました」
「まあ…わざわざありがとうございます。ちょっと待っててくださいね」
いくぶんか和らいだ声にほっとした。玄関のドアが開いた。
「こんばんは」
三輪の母親がこうべを垂れた。僕もおじぎをした。
母親の顔には、見て分かるほどの疲労が刻まれていた。長すぎる髪を一つに束ねていた。青白い肌に青白い唇。瞳は何かを恐れるようにゆらいでいる。本来は美しい人であることは予想できた。今はまるで、幽霊のようだ。
そういえば三輪綾子も美しい少女だ。一ヶ月前のことがなければ、今でも男子生徒達の憧れでありつづけたはずだ。
男子だけではない。女子たちでさえ彼女を偶像視していた。ライバルと思う者は、まずいないだろう。彼女は他の誰かと比較されるような人間ではなかった。彼女はいつも別の次元にいた。だからこそ彼女が精神を病んだというニュースは、よりスキャンダラスだったのだ。
「どうぞ上がってください」
母親は僕を玄関に招き入れた。
吹き抜けの階段の下で、母親は上に向かって声をあげた。
「綾子、お友達よ、あなたのクラスの平井君。挨拶なさい」
階上から答えはない。
「綾子」
しばらくして二階のドアが開く音がした。
三輪の声が降ってきた。
「ごめん、今忙しいの」
「わざわざ来て下さったのに失礼でしょう」
「忙しいんだってば。平井君、上まで来て」
部屋に来いだって?
「何言ってるの、綾子!降りて来なさい」
ばたん、とドアが閉まった。あとは沈黙。
「綾子!…ほんとにすみません」
母親はため息をつき、困ったような笑みを作った。
「あ、いや、僕は全然かまいません。渡してきますよ」
僕は咄嗟に愛想笑いをして焦りを隠した。嫌がるわけにもいかないじゃないか。しかし、何故か母親がためらった。
「それは…」
「何か?」
部屋に行かせたくない理由でもあるんだろうか。やはりあの噂か。三輪に関するあの噂。僕はつばを飲み込んだ。
「いいえ、学校からの預かり物、私が後で綾子に渡しておきましょう」
「そうですか?じゃあ」
と、また二階の扉が開いた
「帰っちゃやだよ、平井君。上まで来て。お母さんはもうどっかいっていいよ」
それだけ言ってまた扉が閉まった。
「あや…」
母親はそれ以上、何も言えなかった。
眉間に皺を寄せ、僕を見た。ひどく申し訳なさそうに。
どうやら、主導権は娘のほうにあるらしい。母親は娘の命令に逆らえないのだろう。
僕は腹をくくった。彼女の部屋に行くしかないようだ。
「渡してきます」
ゆっくりと階段を昇った。気を落ち着かせるように。
二階にあがり、「AYAKO」と書かれたプレートのかかる部屋の前で立ち止まった。呼吸を整えた。心臓が高鳴っていた。頭の中で、例の噂が反芻した。
『三輪綾子は、一ヶ月前…』
身震いした。まるで大きな罠を目の前にしているような。足を踏み入れてはいけない場所に入ろうとしているような。
静かにノックした。
「入って」
言われるままにドアノブを回した。驚くほど軽く扉は開いた。
目に飛び込んで来たのは、窓枠の中で煌煌と輝く満月。
電気もつけず、カーテンを開け放して、三輪は床に座り、月を見ていた。
僕は月に感謝した。彼女は僕に背を向けて月を眺めている。
どうかこちらを向かないでくれ。その顔を見せないでほしい。「あの噂」の真偽を確かめる勇気がまだない。
三輪はノースリーブのワンピースを着ていた。華奢な背中を長い黒髪が覆っていた。床に影が黒い染みのように伸びていた。
「電気つけないの?」
「月が見えにくくなるでしょう」
彼女は微動だにせず答えた。満月を見上げたままの姿勢で。そうだ、そのまま、こちらを向くな。
「忙しいって月見?」
「月は月見ができないよね。かわいそうだと思わない?」
「えっ?いや、よく分からない」
「私、恋してるの。絶対叶わない恋を。月の気持ちが分かるわ。月は地球に嫉妬してるの。だって地球は月見ができるんだもの」
あまり余計な会話はしないほうがいい、ということに気が付いた。早く用件を済まさねば。
「先生から預かったもの、置いておくよ」
「月って目玉に似てない?」
背筋がすっと寒くなった。僕がさっき思ったことと同じことを口にされたから。
「分からない」
「どうして人は自分の顔を見ることができないの。顔は私のものなのに、他人ばかりが私の顔を見る」
「鏡に映せばいいじゃないか」
言ってから、しまったと思った。彼女の会話に巻き込まれてはいけない。きっとろくなことにならない。
「鏡に映した文字をまともに読める?」
「えっ…」
「読めないでしょう?鏡像なんて偽物なの。肉眼で本物を見たいの。だいたいどうして鏡なんて道具を使わないと見ることができないの?顔は私のものなのに」
「ごめん、僕そろそろ」
「目玉だって一度、自分の姿を見てみたいんだわ。私は月の気持ちが分かる。共感してあげてるのに、ほら」
彼女は真っ直ぐ、月を指さした。細く綺麗な指が月光に照らされた。
「ほら、月は冷たいわ。いつまでもああやって、白目を剥いて死んだふり」
また僕と同じことを言う。
悪寒が走った。
にわかに月が恐ろしくなった。満月が今にも回転して、黒目が僕らを睨みつける。そんな錯覚に襲われた。
月が怖い。
「明かり、つけるよ」
たまらず僕は、天井の電器から垂れる紐をひっぱった。
ぱっと部屋が明るくなった。
月は消えた。ほっと息をついた。
が、部屋を見回し、後悔した。明かりなんてつけるんじゃなかったと。
おびただしい数の三輪綾子が、僕を取り巻いていた。
四方の壁を、彼女の写真が埋め尽くしていたのだ。
様々なアングルから撮影した、様々な時間の彼女の姿。
顔だけのアップや、全身写真や、目だけ写したもの、足だけ写したもの。それから赤ん坊の頃の写真、小学校の運動会の写真、中学の修学旅行の写真。ありとあらゆる三輪綾子の写真。
ただし一緒に移っている他人はいない。自分の姿以外は全て切り取ってあった。
一箇所だけ、写真のない部分があった。僕はそれを見つめた。恐怖にひきつった僕自身がいた。
鏡だ。
大きな鏡がかけてあり、その部分だけは写真が無い。
見回すと部屋にはタンスもベッドも机もなかった。そのかわり、四隅に一台づつ、合計四台の三面鏡が備え付けられていた。
自分の写真と鏡だけ。彼女は自分に囲まれ暮らしている。
ふと天井を見上げて戦慄した。
天井もだ。一体どうやって貼ったのか、彼女の写真がびっしりと覆っている。満面の笑顔で頭上から僕を見下ろす写真と目が合った。今にもその写真は口を開いてこう言いそうだった。
——今ごろ気付いたの平井君?ここからずっと見ていたのに
僕は呆然と立ち尽くした。
突然、彼女が嗚咽をはじめた。膝を抱き、肩を震わせ、泣きじゃくる。
「どうしたの?」
あせって声をかけた。明かりをつけたのがまずかったのか。
そうだ、きっと写真を見られたくなかったのだろう。誰にでも、人に言えない秘密の一つや二つある。他人に知られたら自殺したくなるほどの恥ずかしい何かを誰もが持っている。
僕はそれに触れてしまったのかもしれない。
自分の愚かさを呪った。三輪は心を病んでいるんだ。もっと配慮しなければいけないのに。彼女はクラスメートじゃないか。
再び紐をひっぱった。明かりが消えて満月が現れた。
「ごめんね、電気つけちゃって」
「ちがうの」
三輪は泣きながら、しかし張りのある澄んだ声で、はっきりと言った。
「え?」
「恋しいの。恋しくて、恋しくて、涙が出るの」
彼女は両腕を高く月に掲げた。
その手にはガラス瓶が握られていた。
ガラス瓶は液体で満たされていた。
液体の中には、小さな丸い物が浮かんでいた。
月光を浴びて、丸い物はきらりと光った。
彼女はゆっくりと、こちらを振り向いた。
美しい顔だった。
息をのむ程の美少女だ。月の光が彫りの深い顔立ちに陰影を落とし、その美しさを際立たせた。
しかし、右目が潰れていた。
僕は噂が本当であることを知った。
『三輪綾子は一ヶ月前、自分の右の眼球をえぐり出したらしい。眼球はホルマリン漬けにして持ち歩いているらしい』
彼女の左目から涙が一筋、流れ落ちた。涙は透明な光を一瞬放って、闇に消えた。
「私は私に恋してるの。ね?こんな恋、絶対に叶わないでしょう」
「三輪…」
なぜだろう。僕はあんなに恐れていたものを目の当たりにしているのに。恐怖はどこへ行ったのだろう。
ただ切に、三輪を哀れに思った。
狂った恋だが、悲しい恋だ。
「平井君、私のこと頭がおかしいと思う?」
「いいや、思わないよ」
三輪の表情がやわらいだ。可愛らしい顔だった。そしてまた月を見上げてつぶやいた。
「会いたい」
「誰に?」
すると彼女は神妙な面持ちで僕を見つめた。
「秘密だよ?」
「うん」
「ドッペルゲンガー。満月の夜に会えるの」
そしてはにかむように微笑んだ。僕は笑った。
「会ったら死んじゃうんだろう、ドッペルゲンガーは」
「ううん、それは嘘よ。だって私、生きてるもの」
どういう意味だろう。
彼女はいとおしげに、ガラス瓶に頬をすりよせた。
「これはね、一ヶ月前、彼女にもらったの。彼女も私をずっと恋焦がれていたんだって。ずっとひとりで私を探していたんだって」
「ちょっと待って、何を言ってるのか」
再度ふくらんできた僕の不安感などおかまいなしで彼女は続けた。左目をうっとりと細めて。
「私たち、右目と右目を交換したの。だってせっかく会えたんだもの。お互いの体の一部を持っていたかったの」
「それは、君の目だろう」
「ちがう。みんなそう言うね。ちがうよ。これは彼女の目なの。今日も来てくれるかな」
彼女はすくと立ち上がった。
遠くを憧れるまなざしで、月を見つめた。それは恋人を待つ女性の表情だ。やわらかく、やさしく、くるおしい。
その時、激しいめまいが僕を襲った。
頭痛が走った。次いで全身に、引き千切られるような痛みが津波となって押し寄せた。僕は耐え切れず、床に膝をついた。それはいままで経験したことのない感覚だった。まるで体が空間ごとねじられているような。
僕は彼女の足元に崩れ落ちた。視界が闇に浸食される。
かすむ視界のかたすみで、月が二つに割れるのを見た気がした。
そして僕の目は完全に光を失った。
彼女を見すぎた罰かもしれない、と思った。彼女は彼女を見ることができないのに、僕は彼女を見てしまえる。
彼女は彼女だけのものになりたいのに。
「ほら、来たわ!いらっしゃい!お邪魔します?どちらかしら、あは、あは、あはははははは」
闇の中で三輪が笑っている。歓喜の声とはこれを指すのだろう。
その声が二重に聞えたのは気のせいか。
双子が同時にしゃべっているような感じ。
「今日は何を交換する?あら、あなたも平井君を連れているの?そうね、じゃあ今日は、平井君の…」
ちょっと待て?僕のドッペルゲンガー?
それでなんだって?僕の、僕の何を交換するって?待ってくれ三輪。
だが痛みが僕を押さえつけていた。何も見えないし、まったく動けなかった。
誰か助けて。
僕は情けなく嘆願した。
月よ、見ているんだろう?
頼むよ、助けてくれよ。
でも僕は分かっていた。あいつはそういう奴だ。
月はいつまでも、死んだふりをしている。