| 誰もが疑問に思うことがある。 有史以来、この問いを人に投げかけなかった者がいるだろうか。 断言しよう。まずいない。いてはならない。いてたまるかそんなやつ。 ――どうして布団ってこんなに気持ちいいんだろうなぁ…… 程良く全身を包み込む朝日の愛撫も、俺を布団の誘惑から引き剥がすことはできない。 アパートでもベッドはやめて布団にしようかな。 ……パタパタパタ…… 遠くから軽やかな足音が聞こえてくる。そろそろ起きないと……。 すーっ 静かに開かれる襖と共に、柔らかな朝日が侵入してくる。さ、目を開けるぞ。 「お兄ちゃん、朝だよ」 朝。目覚めるとき。闇を駆逐し生ある者たちが活動を始める時間帯。学生さんもサラリ ーマンも主婦も幼稚園児も漫画家も小説家も――いや、後半の二者は例外だな。 「起きて、お兄ちゃん」 うん、今起きるよ――あれ、おかしいな、どうして目が開かないんだ。まるで起床する ことを拒絶しているかのようだ。 「お味噌汁冷めちゃうよ〜」 だんだん声が困惑気味になってきた。この子を困らせるのは決して本意ではないのだが、 意志に反して瞼が上がってくれないのだ。どうしたものかなぁ。 「……もしかして、どこか具合でも悪いの?」 ――瞬間、眠気が吹っ飛んだ。 「おりゃあっ!」 「きゃっ!」 勢いよく掛け布団をはがし、気合いと共に立ち上がる。 「お兄ちゃん……?」 「心配かけちゃってごめんね、朝は弱くてさ」 そういってボサボサの髪を掻き上げる。……どうして人って起きるとまず髪の毛に手を やるんだろう。永遠の謎かも知れん。 「意識は覚醒しているんだけどどうしても瞼が上がってくれなくて。今度起こすときは 蹴っ飛ばしてくれて構わないからね」 「そ、そんなことできないよ」 「じゃあ、布団を引っ剥がすとか」 「お兄ちゃん、お布団抱きかかえて寝てるから……」 そういえばそうだった。 「それなら……枕を引っこ抜くというのはどうかな」 「あ、それなら簡単そう」 この「枕抜き」という技は意外と効果が高く、思わず目を開けてしまうのだ。大学の友 人は毎朝これを彼女にやってもらっているらしいが、なんとも羨ましい話である。 「よし、明日からは枕抜きだ。……でもその前に、衝撃がどんなもんか一度試してみよ う」 「うん」 「じゃあ、お休みなさい……ぐぅ」 「わっ、ほんとに寝ちゃダメだよぉ」 「いつまで寝とるかぁーっ!」 「どわぁっ!」 部屋全体が震動するかのような怒声が耳朶を打つ。こんな声出すのは柏木家には一人し かいない。 「あ、梓お姉ちゃん」 「梓お姉ちゃん、じゃなぁいっ!」 「え? え?」 「もうとっくに朝食の用意が整って、みんな食卓についてんのにあんた達があんまり遅 いから見に来たら……二人して何やってんのよ!」 もし角が生えていたら鴨居に突き刺さりそうなくらい梓は怒っていた。毎朝のことじゃ ないか、そう目くじらを立てるな……などといったら本当に角が生えてきそうなので口を 緘し、起きあがった。――あれ、今日はこいつエプロンしてないな? 「とにかく耕一はさっさと顔洗ってくる!」 「へーい」 「今日は目一杯働いてもらうんだからね」 ……何? 「忘れたとは言わせないよ、昨日の《一日女王様》」 「――勿論覚えてたさ」 「今の不自然な間は何だっ!」 「さーて顔洗ってこよっと」 待たんかこら、という梓の声を背に受けて、俺はそそくさと洗面台に向かった。 俺のせいで朝食が遅くなったというのに、楓ちゃんも千鶴さんもいつも通りの屈託無い 笑みと共に朝の挨拶をしてくれた。 「もう慣れましたから」 どこか楽しげな声で千鶴さんが言う。 ――もう少し早く起きるようにするか。流石に申し訳ないよな……。 「まったく……結局あたしが起こしにいくことになるんだから」 「ごめんね梓お姉ちゃん……」 「初音のせいじゃないよ。毎朝人に起こされないと駄目なやつが悪い」 「ごもっともでございます……」 「平然とご飯食べながら言うな!」 「ところで、今日の朝食は誰が作ったの?」 「今日は楓が作ったんですよ。ね?」 「……はい」 うむ、このさりげなく話題を変える技は俺にのみ成し得る高等技術だ。他の人がやった ら多分無視されるだろう。 「へぇ……道理でいつもと微妙に味が違うわけだ」 「……お味は、どうですか?」 真剣な眼差しで訊いてくる楓ちゃんは、箸を置いてじっとこちらを見つめている。緊張 ……してるのか? 俺は味噌汁を一口すすって答えた。 「美味しいよ。これならどこへ出したって通用する」 そういって更に卵焼きを口に運び、数回咀嚼してから飲み込む。 「特にこの卵焼きなんかは……梓の卵焼きに肉薄してるね」 「ほんと、驚いたわ……楓もやるもんだねぇ」 引き合いに出された梓も妹の上達ぶりを褒め称えた。梓の卵焼きはそんじょそこらのも のとはわけが違う。グルメとか抜かすおっさん達ならば、一〇分間くらい費やして自身の 語彙の限界に挑戦し出すかも知れない。 その味に肉薄するということは、柏木家では大変なことなのだ。 「よかった……」 楓ちゃんは安心したように胸をなで下ろした。多分、俺の評価が一番心配だったんだろ うな……。 「朝飯を楓ちゃんが作ったということは、晩飯はひょっとして……」 「うん、私が作るんだよ」 なんだか嬉しそうに初音ちゃんが言う。この子も料理は上手なんだよな。 ――下の三人がこうなのに、あの人はどうして……。 「今日はあたしは一切家事をしないからね。料理はこの二人に任せたんだ」 「そうか……で、俺と千鶴さんには何をやらせるつもりだ?」 「ん? まず耕一はねぇ……」 そこで何故か梓は千鶴さんに目をやり、 「私の小間使い兼家政夫ってとこかな」 「な……なんですってぇ?!」 ……びっくりした。梓の「命令」の内容ではなく、千鶴さんの大声に。 「こ、こ、小間使いって、どういうこと? 梓、あなた耕一さんに何をさせるつもりな の?! 大体それは私が……」 何って……雑用とかじゃないのか? 千鶴さんは何をそんなに憤慨しているのだろう。 当の梓は沢庵をぽりぽりやりながら、こうのたもうた。――陰惨な笑みと共に。 「何って……千鶴姉が耕一にさせようとしてたこと、かな?」 「――?!」 うわ……千鶴さん赤くなったり青くなったり器用だな。 「ダメよダメ! そんなことは許さないわよ?! まだ日も高いうちからそんな……そん なことは柏木家の家長として絶対許しません!」 「姉さん……耕一さんになにをさせるつもりなの……?」 か、楓ちゃんまで参戦してきた。鬼気が立ちこめているようだ……ってちょっと待て、 俺はちっとも話が見えないぞ?! 梓は一体何を企んでいるんだ?! いや実はなんとなーく 想像が付かないこともなかったりするんだけど、そいつに気付いてしまったらもうあの日 に帰れないというかなんというか、とにかくやつの真意が掴めん! 「お、おっかない顔しないでよ楓ぇ……今日は特に予定もないから家でのんびり過ごそ うと思って、それで耕一に色々細かいことを頼もうとしてるだけだよ」 学校はどうした、と言いかけて言葉を飲み込む。こいつもいまや女子大生だってこと忘 れてた。つまり俺と同じご身分なのだ。 「その『細かいこと』が重要なのよ! いやしくも柏木家の次女たるあなたが、お天道 様が沈みきらないうちからそんなことを……」 「千鶴お姉ちゃん……お兄ちゃんに何をさせるつもりだったの?」 「あ、それ俺も訊きたい」 初音ちゃんは不安げに、俺は興味津々といった体で質問した。が、千鶴さんは視線を泳 がせたまま答えようとしない。なんか知らんがかつてないピンチを迎えているようだ。 「こ、子供はまだ知らなくていいことです!」 「千鶴さん、お酒が飲める年齢の人は子供とは……」 「殿方は訊いてはいけないことなのです!」 「……はい」 頷いてしまった。まぁこれ以上追求したらまた昨夜の二の舞にならないとも限らないし な。 奇妙な間が数秒流れた後、最初に口を開いたのは初音ちゃんだった。 「じゃあ、結局梓お姉ちゃんはお兄ちゃんに何をしてもらうつもりなの?」 二対の目が梓を捉える。その瞳にはやたら剣呑な光が宿っている……ように見えた。初 音ちゃんだけが純粋な好奇心を覗かせているのが救いだ。 「だからさ、お茶を入れさせたり、家の掃除をさせたり、買い物をさせたり、洗濯物を 干させたり……そういう家事みたいなことだよ」 「なんだ、昨日言ってたことと殆ど変わらないじゃないか」 束の間安堵しかける姉妹達。 「――あと、マッサージなんかもやってもらおうかな」 このときの梓に他意はなかったと思う。ただ純粋に、家事で疲れた身体を揉みほぐして もらいたかっただけだろう。だが、そう解釈しない人が多分一名いるだろうな、と瞬時に 判断した俺は、「彼女」がアクションを起こす前に場の流れを変えた。 「へいへい、なんでも仰せつかりますよ。今日一日はお前の天下だ。それで、初音ちゃ んと楓ちゃんは食事の用意で、千鶴さんには何をさせるつもりだ?」 質問が一番最初のやつに戻った。そういえばこれ訊いてからみんなおかしくなったんだ よな。 「千鶴姉はね……」 初音ちゃんと楓ちゃんは(何をさせるつもりなんだろう?)てな表情だが、千鶴さんは なんだかかなり不安そうだ。梓は味噌汁を一口すすり、 「――今夜の夕食の手伝いを禁ずる」 「な……ど、どういうことそれ?!」 「今夜は初音が台所に立つわけだけど、千鶴姉が手伝うとか称して色々余計なことしよ うとしたら初音じゃ止められないでしょ? だからそのための予防策」 梓……お前ってやつは……! ふと気になって視線を向けると、楓ちゃんは梓を無言のまま見つめている。初音ちゃん は……あ、安堵の息を吐いてる。 「べ、別にまだ手伝いに行くと決まったわけじゃあ……」 「いーや来る。必ず来る。言わなきゃ絶対来るだろうからとりあえず防がせてもらった よ」 「……………………」 ……千鶴さん、一言もなし。 「そ、そういうわけだから……ごめんね、お姉ちゃん。でも、しょうがないよね?」 「――女王の勅命だから」 楓ちゃん……なんか念を押してるみたいだよ。 しかしまぁ、梓のおかげで今夜柏木家から史上類を見ない奇病が発現するようなことは なくなったわけだ。 「アレ」以来俺はキノコを見ると反射的に構えるようになってしまい、大学の学食でハ ンバーグに添えられたマッシュルームを見て調理室に駆け込んだ程だ。無論あの人がいる わけはなかったが、それ以来俺はハンバーグ定食を頼むのはやめてしまった。いちいちキ ノコ見る度に席立って調理室に飛び込んでられるかい。 かくして、一人いじけた千鶴さんは悄然と送迎用の車に乗り込み、年少組二人は元気よ く学校へ出かけていった。そして家には俺と梓の二人が残り、いつもなら部屋でごろごろ ……となるのだが、今日はそういうわけにはいかなかった。 「さぁて、それじゃ早速働いてもらおうかな」 悪戯っ子のような笑みを浮かべて梓が言う。 「ま、まさか本当に土蔵の整理を……」 「やりたい?」 「そういうのは暮れにやりゃいいだろがっ!」 「じゃ、草むしり」 「生えとらんっ!」 「池の泥すくい」 「本気か……本気なのか梓……?」 なんてこった。やつはやる気満々だ。……くそ、こうなりゃやけだ、なんでもやってや る! 「まぁ取りあえずは家の掃除だね。あたしらの部屋はいいから、それ以外の……客間と か廊下とかを綺麗にしてちょうだい」 「よっしゃ、顔が映るくらい磨き上げてやるぜ!」 「……そこまでしなくてもいいけど」 「いや、今の俺はなんだってやれる。池の水だって飲み干せと言われれば飲んでやる!」 「……池の水はいいから、今はとりあえず家の掃除をお願い」 「合点だ!」 掃除用具を取りに駆け出す俺の背中に梓の視線を感じた。ふっ、俺だってやるときはや るぜ! 「……飲み干させてみてもよかったかな」 |