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第 6 章

春の日差しは心地よい。
 夏の突き刺すような光とも、冬のか弱げな光とも一線を画すそれは俺の身体を優しく包
み込み、冷たい風の愛撫から身を守ってくれる。また、時には風とワルツを踊るように優
雅に、軽やかに降り注ぐ――

 またしてもへっぽこ詩人のような文句が脳裏に浮かんだ。
 最近読んだ小説とかの影響か? ワルツなんて名前しか知らないというのに、何を抜か
すやら……。

 「……耕一さん、疲れてませんか?」

 俺の右隣から気遣うような言葉を発したのは楓ちゃんだ。

 「いや、全然。どうして?」

 「急に何も言わなくなってしまったから……」

 「どこかで休憩しよっか?」

 左隣から心配そうに初音ちゃんが言う。いかん、へっぽこ詩人モードは人がいるときは
控えなくては。やりたくてやってるわけではないのだが。

 実を言うと少々疲れていたのは確かだ。というのも、女性の買い物ってやつに初めて付
き合ったためだ。
 《一日女王様》権を獲得した楓ちゃんと初音ちゃんが俺に要求した事――「一日買い物
に付き合う」――を、どうも俺は甘く見すぎていたようだ。
 俗に「女性の買い物は大変時間がかかる」とはよく言うが、今日俺は身を持って知る羽
目になった。――確かに長い。
 朝千鶴さんが忠告してくれた時はさほど真摯に受け止めなかったのだが、今にして思う
と、あれは「覚悟を決めろ」と言っていたのではないか。
 だが、心底楽しそうな二人を見ていると、俺の疲れも吹き飛ぶような気がするのだ。大
体こんな美少女二人のお供なんて男冥利に尽きるってもんだ。
 だから、俺は苦笑混じりにこう言ったのだ。

 「ほんとに疲れてないってば――それより二人とも、次はどこに行く?」

 二人には真実を隠しておくことにする。あんなこと考えてたなんて恥ずかしくて言える
か。俺はやや性急に話題を変えた。

 「えっとねぇ……次は……」

 「次は?」

 「楓お姉ちゃんはどこへ行きたい?」

 話を振られた楓ちゃんは、何か考え込むような仕草を見せ、それから口にしたのはこん
な一言だった。
 やや照れたような口調で、

 「……少し疲れたから、喫茶店にでも入りましょう」


 「うわぁ、混んでるねぇ」

 「土曜の午後だからね……おっ、あそこの客が出そうだな」

 初音ちゃんお勧めのフルーツパーラーは学生・社会人・おばさんやらでほぼ満席状態だ
った。みんな青春を謳歌しているな、などと年寄り臭いことを考えていると、店の一隅に
中年男性が三人、席を陣取っていた。三〇代半ばくらいかな?

 「いやぁ……大したもんだ」

 空いた席に腰を落ち着けた俺は、二人に例の中年ブラザーズの席を小さく指さし、僅か
に声をひそめて言った。

 「……? あのおじさんたち、お兄ちゃんの知り合いなの?」

 初音ちゃんが不思議そうに言う。楓ちゃんも俺の真意を計りかねているようで、小首を
傾げている――今の可愛かったな。

 「いや、そうじゃなくてさ、こういう店によく出入りできるなって思ったんだよ。こう
いうとこは男にはちょっと敷居が高いからね」

 「そうなの? どうして?」

 「う〜〜〜ん……なんというか……こう、内装といい、店のメニューといい、完全に女
の子をターゲットとした造りだろ? そういうところにいい年こいたおっさんが入るって
事は、これは驚嘆に値することなんだよ。隆山ニュースで報道されてもおかしくない」

 隆山ニュースはちとオーバーか。
 初音ちゃんがまた疑問を呈した。
 
 「そう、かなぁ……? 私がお友達とここに来るときも、たまにだけど男の人見かける
よ?」

 「女の子と一緒に、でしょ」

 「あ……そういえば」

 「男だけだったらまず来れないよ、こういう店は。俺だって初音ちゃんと楓ちゃんが一
緒だから平気なんだし」

 「……納得できました」

 楓ちゃんが難しい方程式を解いて満足したような表情を見せた。分からないことがある
と理解できるまで思考し続ける――学者肌だな。

 「不思議だねぇ……どうして男の人ってこういうお店が恥ずかしいんだろ……可愛いの
に」

 「ほんと、どうしてかな」

 微笑しながら俺は言った。まさにそれ、「可愛い」からなんだが、ま、その辺は女の子
には永遠の謎であろう。

 「お待たせいたしました、こちらロイヤルデラックスパフェ三つでございますね。ごゆ
っくりお召し上がり下さいませ」

 ウェイトレスのお姉さん――といっても多分俺と同じくらい――がオーダーした品を運
んできた。

 普段の俺はこういう時はコーヒーかレモンティーくらいしか頼まないのだが、初音ちゃ
んが美味しいと勧めるので、つい一緒に頼んでしまった。――実は、嫌いじゃなかったり
するんだな。

 「しかしこりゃ――凄いね。食べきれるかな」

 「お兄ちゃんなら大丈夫だよ。私だって食べきれるんだから」

 「では、いただきましょうか」

 そういってスプーンに盛大に中身をすくってほおばった

 「――美味しい」

 最初に感想を述べたのは楓ちゃんだった。

 「でしょう? ここのは格別なんだよ。お兄ちゃんはどう?」

 「いや、こりゃ美味いよ。銀座の名店に勝るとも劣らない味だ」

 まさか隆山にあの店に比肩し得るパフェを出す店があるとは――スプーンを動かす手が
忙しくなってきた。

 「こういうとこは学校の友達と来るの?」

 「うん、私甘いもの好きだから、よく来るよ」

 しかしさっき昼食のパスタを食べたばかりだというのに、よくこれだけのパフェが胃に
収まるものだ。多分、別腹なんだろう。

 ふと気付くと、楓ちゃんのパフェが半分くらいに減っていた。……あれ? 俺のはまだ
三分の一も減ってないのに……。

 「お、あの中年トリオも同じものを頼んだみたいだな」

 ウェイトレスが伝票を置いて去ると、彼らはスプーンを取りクリームの山に突っ込んだ。
いやその光景の凄まじいこと。

 「なんだか可愛いね、一生懸命食べてるみたいで」

 初音ちゃんが微笑ましいといった感じに笑う。俺もつられて笑ったが、内心は彼らに対
する感嘆の念を禁じ得なかった。
 やはり他の客達もちらちらと視線を送っているのだ。注目を浴びない方がおかしい。ど
う見たって彼らは浮いてる。猪木と馬場がデパートに一緒に買い物に来たとしてもここま
で注目したかどうか――
 見せ物パンダのような扱いを受けても、ここのパフェがどうしても食べたかったのだ、
彼らは……。
 一緒に来てくれる女の人がいないのか、隆山パフェ同好会のミーティングなのかどうか
は分からないが、彼らの勇気ある行為に俺は心の中で拍手を……あ、あれ?!

 「……ごちそうさま」 

 見ると、楓ちゃんのパフェは綺麗に平らげられていた。俺のはやっと半分――初音ちゃ
んに至っては三分の二がまだ残ってるというのに……。初音ちゃんが感心したように、

 「楓お姉ちゃん、相変わらず食べるの早いねぇ……」

 「美味しかったから……」

 ちら、と俺の方を見て顔を赤くする楓ちゃん。いや、それはそれで抱きしめたいくらい
可愛いんですが、俺はどうしても納得できなかった。あの小さな口で、どうして俺より早
く食い終わることができるんだ?! ――隆山の早食いプリンセスは、顔を赤らめながら水
を一口飲んだ。


 それから十五分ほどかかってパフェを平らげ、店の混み具合からあまり長居をするのも
悪かろうと、妙に小市民的な考えのもとに、俺達は店を出た。

 時刻は午後二時を回ったところだった。
 二人の購入した洋服等の紙袋を手に提げた俺は、次の目的地を訊ねた。

 「次は初音が決めて」

 先ほど自分の意見を聞いてもらったから、今度は初音ちゃんの番、ということだろう。
そう楓ちゃんが言うと、

 「じゃあ……アクセサリーとか見たいな」

 ということで、先日初音ちゃんが友達の付き合いで寄った店に行くことになった。

 ――あそこかぁ……ちょっときついな……。

 どう考えても二十歳を過ぎた男の入店できるようなところではない。妹の誕生日プレゼ
ントを買いに女友達と来る、という形でも滅多にないだろう。――ここでふと考えた。
 今の俺達は、端から見るとどんな風に見えるのかな。

 男一人に女二人じゃあデートには見られないよな……いや、とんでもない女ったらしと
思われているかも知れない。大体こうして街中を歩いていると、俺はともかく楓ちゃんと
初音ちゃんはやはり際だった存在なのだ。
 男共の視線が絡みつくのは仕方のないことだと理解は出来るのだが、それでもなんか腹
が立つ。
 と、そこへ、

 「私たちって周りから見たらどんな風に見えるかな?」

 そんな俺の心境を知ってか知らずか、いや分かるはずもないのだが初音ちゃんが訊いて
きた。ある答えを待っているようにも見える。
 だが、ここはお約束というやつを実行しなければならない時だ。何故、と訊かれても困
る。それが柏木耕一という男だからだ。

 「そうだな……仲のいい兄妹、だろうなぁやっぱり」

 苦笑と共に口にすると、初音ちゃんがそうかなぁ、と多少残念そうに言う。楓ちゃんは
……少し俯いた。

 「だってさ、男一人と女一人ならともかく、この組み合わせじゃあ仕方ないよ。でなけ
りゃ俺はとんでもない女ったらしだよ」

 「あ……そっか、そうだね」

 そういって初音ちゃんは笑った。なんとなく照れくさそうである。――楓ちゃんは、顔
を赤くしていた。何を考えていたのだろう?


 初音ちゃんの買い物はそれほど時間がかからなかった。もしかしたら俺のことを考慮し
てくれたのかも知れない。
 なんせこの店に入ってから視線の痛いの痛くないの、魔獣を見るような目つきである。
一応、鬼ではあるが。

 「じゃ、買ってくるね」

 俺が見立ててあげたイヤリングを持ってレジに向かうと、俺と楓ちゃんは外に出た。店
を出て開口一番俺が、

 「……視線が突き刺さるようだったよ」

 というと楓ちゃんはくすりと笑ってこう言った。

 「初音、喜んでました」

 「出来ればプレゼントしてあげたかったんだけどね」

 昼食とパフェ、その他で手持ちが少なくなってしまったのだ。近いうちに銀行によって
降ろさねばなるまい。

 「……今日は、ありがとうございました。たくさんご馳走になってしまって……」

 こちらの懐事情を見透かしたかのような楓ちゃんに、俺は明るく言ってやった。

 「とんでもない、これくらい奢るのは当然だよ。なにしろ今日の二人は女王様なんだし
……」

 言葉が途中でとぎれたのは、視界に映った光景のせいだ。四,五歳と思しき男の子が、
道路に飛び出したのだ。
 対面からは、携帯で話をしていてそれに気付かない車が走ってくる。駆け出した。道路
の中央線あたりまで来ていた男の子に両手を伸ばす。数メートル先には車の急ブレーキ音。
――間に合わない!
 そして、何か重いものが地面に叩きつけられた様な音がした。


 「おい、誰か救急車!」

 「なになに? 何があったの?」

 「男の子が飛び出してきたんですって」

 「ぼ、ボク見てました! それを助けようとした人が男の子を抱えて……」

 「うわあ……なにあれ……ひどぉい……」

 「正章! まさあきぃ!」

 「子供の母親みたいね……可哀相……」

 「……………………耕一さん!」

 人垣の中をかいくぐって、おかっぱ頭の少女が駆け寄ってくる。俺は身を起こそうとし
て、身体の違和感に気がついた。
 腕の中には、子供を抱きかかえていたのだ。

 「おい、坊主、大丈夫か?」

 優しく声を掛けると、最初きょとんとして俺を見ていた子が、意識を取り戻したかのよ
うにこくんと頷いた。

 「どこも怪我とかしてないか?」

 また頷く。

 「そっか……よかったな……」

 「うん!」

 今度は元気よく頷いた。俺は立ち上がり、自分が激突した物体を見た。ガードレールが
へこんでいた。
 やばいな、これ、弁償とかしなくちゃまずいかも知れない。

 そこへ自分の名を呼ぶ声と、聞き覚えのない名を叫ぶ声が聞こえた。片方は楓ちゃんと
初音ちゃん。もう片方は……おそらく、この子の母親かなにかだろう。

 「耕一さん……」

 「お兄ちゃん、大丈夫? 何があったの?」

 初音ちゃんの方は今一つ状況が掴めないようだ。さっきまで店の中にいたからだろう。

 「ああ、俺は平気……」

 傍らで子供を抱きしめた女性が何度も正章、正章と連呼して、とめどなく涙を流してい
た。
 当の正章君は何が何だかわからず、驚いた表情でそれを見ていたが、母親が悲しんでい
るとでも思ったのか、一緒になって泣き出してしまった。
 ほっ、と一息ついた声が聞こえたような気がした。周囲にはアイドルかなにかを発見し
て捕獲でもしようとしているかのような異様な雰囲気を醸す人たちが、俺を中心として半
径三メートルほどの半円を描く形で集まっていた。そして、その中の一人が近づいてきた。

 「おい君、大丈夫か?! とにかく子供と一緒に病院に行ったほうがいい! 無傷で済む
はずがないぞ、僅かとはいえ車に撥ね飛ばされたんだから!」

 げ、そうだったのか? また一人、今度は若い男が寄ってきてこういった。

 「そうですよ、あれだけ派手にぶつかって吹っ飛んだんだからどこかおかしくしてます
って……それにオレ、あなたのおかげで子供を轢き殺さないで済んだんだから、できるこ
とならなんでもします!」

 ……そう来たか。
 まいったな、俺はこの通りかすり傷一つ――あ、ちょっと手の甲が擦りむけてるな……
まぁとにかく病院に行くほどの怪我は負ってないのだ。そこへ救急車が来たぞぉ、と別の
声。――ここは、逃げる手だな。

 オレは楓ちゃんと初音ちゃんの手を取って、「走るよ」というが早いかその場を駆け出
した。
 待ちたまえ君、とかお名前を、とか色々声が聞こえたが、それら全てを無視して俺達は
走り去った。走りながら俺は、右手の甲を見つめて思った。

 ――どういうことだ? 鬼の力を発動させる余裕はなかったのに、この軽傷は一体……?


 繁華街から離れ住宅街までやってきた俺達は、手近な公園に入って一息ついた。呼吸を
整えるように大きく息を吐いて、俺は二人に謝罪した。

 「二人とも……ごめんな、なんか後半はとんでもないことに巻き込んじゃって……」

 「…………」

 楓ちゃんは無言だった。表情も読みとれない。

 「あのぅ……なんだかよく分からないんだけど……さっきのあれって、一体なんだった
の?」

 途中経過を見ていない初音ちゃんが困惑した声で言う。俺が先ほどの経過を話すと、見
る見る顔が青ざめていった。

 「お、お兄ちゃん、身体、平気なの? だってあんなにへこんで、人も大勢集まってた
し、大きな音もしたし……」

 気が動転して文法が少しおかしくなっているようだ。俺は安心させるように落ち着いた
声でこういった。

 「大丈夫、俺があの程度で怪我したりするはずがないだろ? 咄嗟に《力》を使ったか
らほら、この程度のかすり傷で済んだよ」

 言って俺は右手の甲を見せた。怪我一つない、と言うより僅かに負傷したといったほう
が安堵させることもあるのだ。怪我はそこだけと錯覚し安心してしまうためだと俺は思う。
実際には《力》は使っていないのだが、この際それは些事としよう。

 「でも……手の皮が剥けてるよ……痛いでしょ?」

 一応安心はしたけど、不安を払拭しきれない様子で初音ちゃんが訊ねる。

 「いや、痛くはないけど……あ、血が出てる」

 それだって大した量じゃない。

 「ちょっとここで待っててね? 動いちゃダメだよ?!」

 重病患者に対するが如き扱いに、俺は苦笑を浮かべながら分かったと返事をした。そし
て初音ちゃんは走っていった。
 水でも探しにいったのかな? 或いはお茶でも買ってきて殺菌するつもりだったりして
……。
 なんて考えていたら、背後から奇妙な声が聞こえてきた。笑い声? いや、だったらな
んでこんな押し殺したような響きで……

 「…………ふぅ……うぐっ……」

 奇声の主は楓ちゃんで、声の正体は嗚咽だった。

 大きな瞳から、水晶のような涙を絶えることなく流して、泣いていたのだ。俺に気付く
と、両手で顔を覆い、手の隙間から透明な水流が顔を伝う。

 「――楓……ちゃん……」

 「……こう……いち……さぁん……ぶ……ぶじで……」

 このとき味わった感情を、俺は二度と味わいたくないと思った。

 身を焦がし魂すらも溶かしそうな焦燥感。永遠に購うことの出来ない罪を犯してしまっ
たかの如き罪悪感。守らなければならないもの――命を賭して守り続けなければならない
ものを、自らの手で傷つけてしまった救い難い愚者……それが今の俺だった。
 ほかに適切な反応などあるはずもないというように、俺は楓ちゃんを抱きしめていた。
そっと、背中に両手を回す。

 「……よかっ……た……うっ……ふっ……」

 俺は瞼を閉じ、天を仰いだ。

 嬉しくて流す涙、OK。
 痛みに流す涙、あやしてあげよう。
 可笑しくて流す涙、どんどん流せばいい。
 しかし、安堵のあまり流す涙は、どうしたらいい? その原因を作ったものは、どうす
ればいいのだ?
 顔を下げると、俺の胸に顔を埋めた楓ちゃんはまだ涙を流している。俺は一言ずつ言葉
を発した。

 「――心配掛けて、ごめん」

 「…………」

 「……大丈夫だから」

 「…………」

 「泣かないで、楓ちゃん――俺は大丈夫だから、泣かないでくれ……」

 感情が理性を容易く支配してしまう。
 無傷を証明する行動や心配する必要がないことを論理的に説明し得る言葉などは、時の
果てにでも捨て去ってしまったかのように、俺はただ単調に、同じ言葉を繰り返していた。

 泣かないで――
 俺は大丈夫だから――


 それから暫くして初音ちゃんが戻ってきた。手には濡れたハンカチが握られていた。

 「……あとでちゃんと消毒しようね?」

 そういいながら俺の右手の甲を優しく拭う。この子にも、心配掛けちゃったな……。

 「ありがとう……心配掛けてごめんね」

 「……ううん、無事だったから、もういいの」

 彼女の目尻に光るものがある――またしても、激しい罪悪感。

 「さ、そろそろ行こう」

 俺は明るく言った。湿っぽい空気を吹き飛ばすように。

 「行くって……どこに?」

 「まだ今日は終わってないんだから、俺は二人の言うことを聞く義務があるんだよ。次
は何して欲しい?」

 「あ……じゃ、じゃあね、次は……どうしよっか楓お姉ちゃん?」

 こちらの意図を汲み取ってくれたかのように、初音ちゃんが元気な声で問いかける。よ
うやく落ち着いた彼女も、

 「もう買い物は十分したから……散歩でもしましょう」

 と、済んだ笑顔で言ってくれた。
 なによりもその笑顔が、俺の救いとなった。


 色々な話をしながら、俺達は散歩をした。いまだこちらの地理に明るくない俺は、二人
の足の向くままに歩いていた。先ほどの悲痛な表情はどこにもなく、初音ちゃんは俺の話
に相づちを打ち、時折楓ちゃんが絶妙なつっこみを入れてくれる。多少アクシデントはあ
ったものの、今日は楽しかった、といえよう。

 日が傾き、公園から子供達が徐々に姿を消し始める頃、俺達は柏木家の門をくぐった。

 留守番をしていた梓は居間でTVを見ていた。

 「お帰り、二人とも今日は楽しんできた?」

 「うん、すっごく楽しかったよ!」

 「……堪能しました」

 妹たちの笑顔に目を細める梓。こうして見てると年相応のお姉さんの様に見えないこと
もない。

 「そっか……耕一は?」

 「そりゃもう、雑巾掛けしたり掃除機を掛けたりするよりは遙かに楽しかったぞ」

 「……どうして素直に一言で言い表せないのあんたは」

 「俺じゃない別の誰かが喋ってるんだろ」

 「どこのどなただそいつはっ!」

 「梓、今日の晩飯は?」

 「誤魔化されるかっ!」

 「今日は洋食がいいな」

 「…………千鶴姉に頼もうか?」

 「いやもうちょー楽しかったっス! てゆーかサイコーみたいな?」

 「やめんか気色悪いっ!」

 またこんなあほなやりとりで年少組を笑いの渦にたたき込む。しかし毎日毎日よくやる
もんだ。

 「ったくあんたって男は……」

 言いかけて顔つきが強ばる。見られたか。

 「手、どうしたの?」

 隠すほどのことでもないので、俺は話した。あとになって発覚したらそっちの方が厄介
だからだ。
 何か言う前に俺が無傷であることを強くアピールしておく。《力》を使ったといえばあ
まり心配も掛けずに済むだろう。それでもやはり梓は、

 「……本当に、どこもおかしくないんだね?」

 と念を押してきた。いつもの軽口を叩くこともなく、俺も真面目に答えた。

 「ああ、大丈夫だ。心配掛けてすまん」

 「ん……なら、いい」

 ほっとしたように、梓が言う。今日はあと一回これを言いそうだな。

 「ということで、俺はちょっと部屋に戻ってるから、晩飯ができたら呼んでくれ」

 そういって居間を出た。

 
 「それにしても……妙だな」

 どうしてこんなかすり傷ですんだのだろう? 目撃者の話では、かすかにではあるが身
体が車に接触し、結果撥ねられたというのだ。
 肉体が変質しているのか? でもそれだったらこの手の甲はどういうわけだ?
 俺が首をかしげていると、障子の向こうから声がした。

 「お兄ちゃん……入っていい?」


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