| 「ただいま…」 お、楓ちゃんのお帰りだ。俺は雑巾をぎゅっと絞ってバケツに引っかけると玄関に向か った――ゆっくりと。 「お帰り、楓ちゃん」 「ただいま戻りまし……」 靴を揃えてから俺の姿を見て軽く目を瞠る。まだ啓蟄を過ぎたばかりだというのに、俺 が半袖でいたからだろう。 「そんな格好で……寒くないんですか?」 「いやぁ、最初のうちは上着着てたんだけど、動き回ってるともう暑くなっちゃってね。 今だって汗かいてるほどなんだ」 「何を……していたんですか?」 「さっき廊下の雑巾掛けが終わったところだよ。あ、歩くときは気をつけてね」 「え……あっ!」 「うぉっと!」 楓ちゃんが足を滑らせ、腰が廊下につく前に手を伸ばして支え、そのままの体勢でこう 言った。 「どうも気合いを入れすぎちゃったみたいで、今この家の廊下はスケートリンクも真っ 青なほど滑りやすいんだ」 「……びっくりしました」 おや、楓ちゃん顔が赤いな。しかも、じっと俺を見つめている。 ――改めて見ると、この子は本当に綺麗だ。どこかこの世のものでない、幻想的な美貌、 とでも評すべきか。千鶴さんとはまた異なる美しさ。 彼女の腰を抱いたまま、俺はしばし見とれていた。そこへ何か大質量のものが滑って転 んで尻を打ったような音が響いてきた。 「……いった……もう、なんでここまで磨き上げる必要があんのよ?!」 梓だ。 「耕一ーっ! どこ行ったーっ?!」 呼ばれているようだ。 「誰がここまでやれって言った?! 出てこーい!」 なんだか理不尽なお叱りを受けなければならないような気がする。掃除をしろ、といわ れたからした。かなり頑張った。廊下でスケートが楽しめるほどに。うまくすりゃ移動も 楽になる。流行の最先端かも知れん。それなのに、何故? 「耕一さん……来ますよ……」 楓ちゃんの声ではたと我に返った俺は、そっと彼女の腰から手を離すとその顔を見つめ てこう言った。 「楓ちゃん……俺は洗剤を買いに行ったと伝えてくれ!」 言うが早いか靴を履きだす。ふむ、二、三十分したら戻ってこよう。 「あ、こら耕一どこいくのさ?!」 背中に梓の怒声を受けつつ、俺は玄関から外へ駆け出した。 しかし世の中というものはよくできたもので、天の上におわす全能の存在は俺の遁走を 見逃してはくれなかった。くそ、よく見てやがる。 「耕一ぃ、お茶ー」 別に玄関を出たら台所にワープしたというわけではない。柏木家には時々人外の存在が 手を入れたようなポイントが存在したりもするが、少なくとも空間が歪んでいたり重力場 の異常が検知されたことはない。そんなもんどうやって調べるのかは知らんが。 「楓と初音の分もねー」 三人分のお茶を入れると、居間に運ぶ。そこには先ほど帰宅したばかりの初音ちゃんも いた。 「お待たせいたしました……粗茶でございますが、どうぞ」 「……身内相手にへりくだってどうすんのよ」 呆れ顔でレモンティーを受け取る梓。 「楓ちゃんは緑茶だったよね」 「はい……すいません」 なんだか恐縮している。お茶一杯で大げさな。 「で、ミルクティーは初音ちゃん、と」 「うん、ありがとう」 ちなみに初音ちゃんのはやや甘めに入れてある。 「で、俺の分は……ないんだなこれが」 「なんなのその説明台詞は……」 「ほっとけ。で、お茶くみの次は何をすればいいんだ?」 「あれ、従順になったねぇ。さっきは逃げだそうとしたくせに」 「洗剤を買いに行こうとしただけだって言っただろーがっ!」 「いーや、あそこで初音が帰ってこなかったらそのまま外に出てたねあんたは」 「ごめんねぇお兄ちゃん」 苦笑しながら初音ちゃんが両手を合わせる。 そう、あの後玄関を出たらちょうど初音ちゃんが帰ってきて、「やあお帰り」、「ただ いまお兄ちゃん」、とやってる間に梓の魔手に捕まってしまったのだ。そして現在の状況 に至るのだが……。 「信用度ゼロかよ……なんなんだ俺って」 「それにしても、今日は家の中が綺麗だね」 初音ちゃんが居間を見回して言い、俺の増長指数が微妙に跳ね上がる。 「そりゃもう、俺の手にかかればこんなもんよ」 「またふんぞり返ってこの男は……どこをどう磨いたらあんなに廊下が滑りやすくなる んだか」 「そう誉めるな」 「どこが誉めてる?!」 「誰にでもできることじゃないぞ」 「自慢するほどのことかっ!」 「かといって卑下もしないぞ」 「どこ見て喋ってるのさ?!」 「大声出し続けてると喉が嗄れないか?」 「…………あんたは〜〜〜!」 二種類の笑い声が聞こえる。楓ちゃんは耐えられないといった感じで。初音ちゃんはど こか嬉しそうに。……どうして梓と会話してるとこう漫才のようになってしまうのだろう。 お互いに腹蔵なく話し合える相手というものは得難い存在だと思う。俺にとって梓はそ んなやつであり、時には年相応の女の子にも見えるが、やっぱりこういうやりとりができ る梓が一番……いや、やめとこう。なんだか恥ずかしい。 それから楓ちゃんと初音ちゃんは学校の課題を片づけに部屋に戻り、俺はというと、命 令待機の状態である。 「さて、次は何をしてもらおっかなぁ」 朝から掃除洗濯買い物と馬車馬の如く扱き使われ、それでも今日という日が終わるまで、 つまりあと約八時間は梓のいいなりなのだ。 …………長すぎる。 「――これ以上なにかやらせることがあるというのか」 「そうねぇ……」 梓はどこか楽しそうだ。 「まったく……俺の人生でこんっっなに家事に精を出したのは今日が初めてだぞ。これ で褒美はなしってんだからもう……」 「…………」 あれ、いつもならここで「言い出しっぺは自分だろ」って返ってくるんだが……。 「……ご褒美……欲しい?」 「……え?」 梓が立ち上がって、俺の隣に腰掛けた。そして、俺の頭を掴むと、自分の膝の上に持っ ていく。 「お、おい、梓?」 「ご褒美だよ……今日一日頑張ってくれたから……」 なんと、俺は梓に膝枕をしてもらっているらしい。陸上部で鍛えた足は多少太いが弾力 があって気持ちいい……ってどうしたんだ梓は?! 「……大変だったでしょ、今日は」 おまけに声まで優しい。本心から俺を労ってくれているのが分かる。ここは……素直に 厚意に甘えておこう。 「ああ……もうへろへろだよ」 「あたしは毎日やってるんだよ」 「……大したもんだよ、お前は」 心底そう思う。昔から――親父が生きていた頃から梓は柏木家の家政を司ってきたんだ。 楓ちゃんや初音ちゃんも家事の手伝いはしてくれただろう。千鶴さんは柏木家が築き上 げたものを継承し、精神的に妹たちを支えてきた。 だが、それでも―― こいつの苦労は、やはりただならぬものではなかったかと思う。そう思うと、頭が下が ると同時に、激しい慚愧の念が俺を襲う。 ――何故今まで……親父が死ぬまでどうして俺は……! 俺はうつぶせになって顔を隠した。そっと、梓の手が俺の頭を撫でる。 「もう今日はいいよ。十分女王様気分を味わったからね」 「――大したことしてないぞ、俺は……」 「何言ってんの、廊下をスケートリンクになるまで磨き上げたりしたでしょ」 「誉められてんのかいびられてんのか分からんな」 勿論誉めてるって、と笑いながらまた髪を撫でる。くすぐったい。 「……ほんとにもういいのか?」 「え?」 「もっと……何かして欲しいこととか、あるんじゃないのか?」 俺は顔を戻してそう言った。梓の双眸には俺の顔が映っていた。 「いいぜ、今日はお前の言うこと何でも聞くって言ったんだから、遠慮はなしだ」 「…………」 困惑と羞恥をないまぜにしたような表情で、梓はじっと俺のことを見ている。しばらく、 といっても実際は数秒程度の沈黙だったろうか。か細い声で、 「――じゃ、目をつぶって」 俺は言うとおりにした。 梓の顔が近づいてくるのが、分かった。不思議と心は落ち着いていた。そこへ…… ……パタパタパタ…… 咄嗟に顔を離し、あまつさえ俺を思い切り吹っ飛ばして梓は元の座っていた位置に戻っ た。 「梓お姉ちゃん、今日のお夕飯何が食べたい?」 初音ちゃんが襖の向こうから顔を見せてそういった。 「そ、そうね……初音のセンスに任せようかな」 「私、まだあんまりレパートリーないのに……いいの?」 「いいのいいの、おかずにチーズケーキとか出てきても驚かないから」 「あ、ひどいよお姉ちゃん、いくらなんでもそんなことしないよ〜」 「冗談だって……ま、とにかく任せるからね」 「うん、じゃあお買い物行って来るね」 「あ、じゃあ耕一も連れていきな。荷物持ちってことで」 「……お兄ちゃん、何してるのそんなとこで?」 部屋の隅っこでマグロのように横たわっていた俺は、このときどんな顔をしていたのだろうか。 腕前を比べると、どうしても上の二人には劣ってしまうが、それでも初音ちゃんの料理 は十分美味い。 鶏肉の親子煮はこっくりとよく味がしみこんでいてご飯がすすむし、白和えなんて向こ うに帰ったら恐らく絶対口にすることはないだろう。これなら今日はご飯を三杯はおかわ りができそうだ。 ――千鶴さんのことがなければ、だが。 先ほど帰宅してから、楓ちゃんと初音ちゃんを部屋に呼んで何やら話していたようなの だが……どこか、怪しい。 夕食前に梓から「手伝い禁止令」の念を押された時も、拗ねるでもなく「はいはい」、 と余裕の笑みで応えたのだ。 ――何か、企んでいるのだろうか。 普段の千鶴さんはそんな子供みたいな事する人じゃないのに、この家に俺が帰ってくる と何か一騒動起こしている気がする。 そういえば俺、近いうちに千鶴さんの手料理をご馳走にならないといけないんだったな ……いかん、暗澹となってしまった。 ……もしかして、それを明日実行しようとするつもりとか。……身体の内部を冷たいも のが支配する。そうなのか、千鶴さん?! 皆の食器が下げられ、居間に移動して、テレビを見ていても俺はそのことが気になって テレビどころじゃなかった。そしてついに、恐れていた一言が千鶴さんの口から…… 「ね、耕一さん……」 ついに来た! 腹をくくれ耕一! 「は、はい?」 「今日もまた、トランプやりませんか?」 「――トランプ?」 「はい。昨日は負けたままで終わっちゃいましたから、雪辱戦というか、今日は勝ちた いなって思って……我ながら子供っぽいとは思うんですけど……」 恥ずかしそうに頬を染めながら千鶴さんが言う。はにかんだ顔も可愛いな――じゃなく て! 「なんだ、俺はまたついに運命の時が来たのかと……いや何でもないです忘れて下さい。 いいですね、じゃあ今夜もやりましょうか」 千鶴さんは嬉しそうに頷いた。 「楓ちゃん達もどうかな? 今日も珍しく千鶴さんが早く帰ってきたことだし」 「う、うん、そうだね、じゃまたトランプ持ってくるね」 「……私も、構いません」 ……何故か、二人の反応が妙に気になった。食器を洗い終えた梓にも声をかけると、 「ふぅん……ま、やってもいいけど、千鶴姉も懲りないねぇ」 「なんとでも言ってちょうだい。今日は勝たせてもらいますからね」 おお、その自信に満ちた表情。自分の勝利を一ミクロンも疑っていない――そんな顔だ。 その自信は一体どこから?! ……なんか、今夜も一波乱ありそうな予感がしてきた……。 |