| 今日の風は暖かかった。 いよいよ冬と完全に決別することを決めた春の風が大地を、空を、雲の谷間を走り抜け ていく。 人や獣が愛し、愛される恵みの風――春風だ。時に優しく肌を滑り、また時には悪戯に、 形を変えて緩やかに……。 「……耕一さん?」 「は、はい?」 いかん、またやってしまった。どうして俺はいつもいつも誰かと一緒の時に限ってへっ ぽこ詩人モードに突入してしまうんだ?! 「どうかしましたか?」 小首を傾げる千鶴さん。 「い、いや別に何も……み、見とれてました」 ふと思いついた誤魔化しの文句が口をついて出た。 「え?」 「今日の千鶴さんに……その……」 「…………」 頬を紅潮させて、手の動きを止める。 「ずっと……見てたんですか?」 「あ……ほ、他に見るものもないし……」 「……恥ずかしいです」 「す、すいません」 そりゃ恥ずかしかろう。 善哉を食べてる所をじっと見つめられたりしたら。 「それにしても……どうしてこの店が《思い出の場所》なんですか?」 俺はこじんまりとした店内を見渡して訊いてみた。 車で約二時間かけて訪れた場所は、隆山からずっと離れた所にある甘味処であった。俺 達以外は二,三組しか客がおらず、繁盛しているようにも見えない。しかし善哉の味は感 嘆すべきもので、隠れた名店を発見できた喜びがあった。 「ここにどんな思い出があるんです?」 その理由を話してくれたのは、店を出てからだった。代金は俺が言い張って出させても らった。つまらない男の意地である。 駐車場に向かいながら、千鶴さんはどこか遠くを見るような目で、語りだした。 なんと、ここは俺の親父に連れてこられたことがあるというのだ。 「昔――まだ私が学生だった頃、一度だけ連れてきてもらったんです」 当時千鶴さんは大学生、親父は鶴来屋の会長として精力的に働いていた。企業人として 辣腕を振るいながら、家庭では良き父親代わりとして姪達の敬愛と信頼を一身に集めてい た親父は、実は密かな楽しみとして月に一度この甘味処に来ていたらしい。 ――いい年こいたおっさんが甘味処で善哉をかっ食らう様はなかなか壮絶なものがある な、などと思いながら、千鶴さんの話に耳を傾ける。 「その日はたまたま友人とこの街に来ていたんです。隠れた名店があるって聞いて……」 人に聞いた話を頼りに、友人が千鶴さんを誘って探し出そうとした店はここだったとい う。しかし、どう探しても見つからない。あとになって住所を聞き間違えていたことが発 覚したが、その時点では分かる由もなく、二人は街中を彷徨い続けた。 小一時間ほど探して、先に友人が音を上げたらしい。今日はこの後用事があるからとい って千鶴さんに頭を下げ、諦めて帰ろうと駅に向かった所で、親父殿の姿を発見したのは 奇貨というべきか僥倖というべきか。 友人と別れ、まだこちらに気付いていない親父に声を掛けたところ、大層驚いてこうい ったとか。 『どうしてここが分かったんだ?! 足立君か?!』 「……アホだな親父は」 俺は苦笑して言った。つられて千鶴さんも笑った。 「そうか……足立さんだけは知ってたわけだ、親父の秘密を」 「はい、偶然知られてしまったとか言ってましたけど」 「妙なところで抜けたことするよな……それで、その後は?」 てっきり自分の秘密がばれてしまったと勘違いした親父は、もうこうなりゃ自棄だと言 わんばかりに千鶴さんをこの店に連れてきて、善哉を勧めたそうだ。 そして、自ら墓穴を掘ったことにようやく気付いたのは、店を出てからだという。 「……そういう『思い出』か。……なんとまぁ……」 「ほんの数年前のことですよ」 懐かしむように、千鶴さんは言う。その顔に少し翳りがよぎったような気がした。 「――あれから、一度もここには来ませんでした」 ――親父が死んでから、ということだろう。 「楽しかった思い出が涙に濡れてしまいそうで……来るのが怖かったんです。でも、今 日やっと、この店にもう一度来ることが出来ました」 「……どうして、今日、来ることが出来たの?」 「耕一さんと一緒だからですよ」 笑顔と共に、そう言った。 穏やかな水面を思わせる、澄明な笑顔だった。 「耕一さんが一緒だから、私はここに来ることが出来たんです」 「……俺は……親父の代わりなのか?」 どうしてこのときこんなことを言ってしまったのかは分からない。こんな千鶴さんを悲 しませるような事を、どうして口にしてしまったのか―― もしかしたら、確かめたかったのかも知れない。 俺という人間の価値を。 千鶴さんが、俺を『柏木耕一』として見てくれているのかどうかを。 千鶴さんの返答は予想に反したものだった。 「代わり……? どうしてそう思うのですか?」 こちらの意図がまるで分からないという風に、千鶴さん。 「いや、その……」 「耕一さんは耕一さんですよ。あなたは誰の代わりでもないし、誰もあなたの代わりに はなれません。私は――」 一旦言葉を切って、こう続けた。 「耕一さんにあの人を重ねて見ていたりはしませんよ」 衝撃的な一言だった。 時折思うことがある。 この人は、何もかも見透かしているのではないか、と。どうして、俺が無意識のうちに 考えまいと封印していたことを……。 「みんな、そう思ってますから」 優しく、あやすような口調だった。俺の心の深奥に潜んだ苦悩を解放するかのように。 俺を、俺として見てくれている。柏木耕一として――望んだ答えとはいえ、これほど嬉 しいものだとは思わなかった。 「――ありがとう、千鶴さん」 「こちらこそ、今日は付き合ってくれてありがとうございました」 「――え、それってもしかして……」 「はい?」 「今日はここだけ付き合ってもうお終いってこと?! そりゃないよ千鶴さん、今日は一 日どこにでも付き合うつもりだったのに」 千鶴さんは困惑したようだった。 「で、でも……ご迷惑じゃありませんか?」 「そんなわけないだろ」 「私と一緒にいて……つまらなくないですか?」 「それ本気で言ってるんなら怒るよ」 「…………」 「どうしてそんな考え方をするんだ。本気で嫌だったら最初から車に乗ってこんなとこ まで来やしないよ俺は!」 ……いかん、つい興奮しちまった。千鶴さんがあんまり悲しいこと言うから……やばい、 泣きそうだ――よし! 「もう頭に来たから今日はずっと一緒だぞ」 「…………え」 「どこに行くにしても絶対つきまとってやる。千鶴さんの半径一メートル以内から離れ ないぞ俺は!」 ストーカー宣言である。 「そういうわけだからして、千鶴さんは自由に行動してくれ。俺はその後をついていく。 ついでに荷物とか持って上げたりするかも知れない。あと暇だったら話し相手とかも務め るかも知れない。でもって一緒に喫茶店とかにも入るかも知れないけど、気にしないでく れ」 「……あ、あの……それって……」 「とりあえず次の目的地を……っていかん俺はつきまとうんだった。さ、千鶴さん車に 乗ってくれ」 「……いいんですか?」 「いいもなにも、俺はつきまとうんだぞ。ストーカーだぞ」 「……あの……できれば……一緒に……」 俯いて、何か小声で呟く千鶴さんに俺は意地悪く声を掛けた。 「はい? 最近耳の調子が悪くて、悪いけどもうちょっと大きな声でお願い」 「い、一緒に……一緒に行動して下さい!」 「――了解」 やっと言ってくれたな。あれ以上引っ張られたら流石の俺もちょっと恥ずかしかったぞ。 「では、お次はどちらへ?」 そう訊ねる俺に、彼女は泣き笑いのような顔で、 「……どこか……静かなところに行きたいです……」 と言った。 ここで風光明媚な所でも知っていればよかったのだが、生憎こちらの土地勘ゼロの俺は どこに連れていったら千鶴さんのお気に召すのか分からなかった。で、結局千鶴さんにお 伺いを立てた。 「耕一さんはどういうところがいいですか?」 「そうだな……って俺の意見はいいの。今日は千鶴さんが女王様で俺はその下僕なんだ から、好きなところを言ってよ」 運転中のため顔は正面を向けたまま言うと、千鶴さんは少し困ったような声で、 「でも……私、あまり楽しいところって知らないんです」 「うーん……静かなところがいいんでしょ? だったら水族館とかはパスだな、日曜は 家族連れとかで混んでるだろうから」 「そうなんですか……」 「となると……」 静かなところ、というと美術館とかが該当するかな。しかし俺には絵画や書を鑑賞して 蘊蓄を垂れるような高尚な趣味はない。でも千鶴さんならそういうの好きそう……な気が する。 とりあえず思いついたところから言ってみようか。 「千鶴さん、びじゅ……」 「そうだ、私行ってみたいところがあったんです!」 両手をパンと叩きながら、千鶴さんが言った。 「耕一さん、さっきの善哉だけじゃ足りないでしょう?」 「え……あ、ああ、そうだね、正直物足りないかな」 甘いものを食ったとはいえ、そこは健康な成年男子の胃袋、もう少しどっしりとしたも のを欲しているのだ。 「隆山に新しくできたレストランがあるんです。行ってみませんか?」 「お、いいねぇ。じゃあまずはそこでちゃんと腹ごしらえをして、改めてどこに行くか 決めようか」 「そうしましょう……ところで、先ほど何か言いかけませんでした? 『びじゅ』…… って」 「あ、あれは何でもないから忘れて」 何はともあれ腹ごしらえが優先だ。 「それで、どんな店なの?」 「洋食屋さんなんですけど、お値段の割に美味しいって評判らしいんです」 「へぇ、そりゃ楽しみだな」 「はい、参考にもなりますからね」 ……何の参考になるのか、あえて訊かずに俺は車を目的地へと走らせた。 瀟洒な感じのそのレストランは、ピークを過ぎたようで客も多くはなかった。メニュー にリゾットがあるのを発見したとき、俺は忘れたいのにどうしても記憶層から消去できな い過去の惨事を思い出してしまい、一瞬動きが止まってしまった。いかん、トラウマにな ってる。 食事を済ませた後、俺達はしばし雑談に興じた。 千鶴さんはどちらかといえば聞き手タイプだが、今日は俺が千鶴さんの話を聞きたがり 仕事のことや最近挑戦した料理の話などを聞かせてくれた。 「それで梓が言うんですよ、『千鶴姉は余計なものを入れすぎだ』って。耕一さんどう 思います?」 ……なんてことを訊いてくれるんだ千鶴さん。 「そんなことないよ」という台詞を期待しているのか? ……いるよねぇ。しかしそん なことを言い続けたら、千鶴さんのためにはならない。はっきり言うべきなのだ。 自分の料理を一口味見したら全ての謎は解けますよ、と。 でもなぁ……それで「美味しかったですよ?」なんて言われたらもう打つ手がなくなっ てしまうじゃないか。それが怖くて口に出来ないのだ。 「そうですねぇ……」 さてどうやって茶を濁そうと、内心激しく懊悩した挙げ句、俺は窮余の一策を考えつい た。いや、これは一挙両得かもしれない。 「千鶴さんの料理は……あ、今ちょっと思い出したんだけど、俺、千鶴さんに大事なこ とを訊きたかったんだ」 「大事なこと、ですか?」 いきなり話題が変わって少々面食らっているようだ。 「うん……ちょっとここじゃ話しづらいから、外へ出よう。この辺にあまり人の来ない ところとかないかな」 「あ……じゃあ、森林公園は如何ですか? 人は来ますけど、公園内はかなり広いです から、あまり目立ちませんよ」 「よし、じゃそこへ行こう」 そう言って俺達は席を立った。図らずも「静かなところ」が選択されたようだ。ここで も払いは俺持ちだったことはいうまでもない。 今時《親子でキャッチボール》なんて光景を見ることができるとは思わなかった。 「微笑ましいねぇ……」 柄でもないことを口にすると、千鶴さんもそうですね、と相づちを打ってくれた。 先ほどのレストランから車で十五分程度の距離にある公園は、千鶴さんの言うとおりか なり広かった。外周を一周するのに軽く三十分はかかりそうである。 新緑を楽しむにはまだ早いかな、と思ったが、木々は空の青と協調するように葉を鮮や かな緑に染め上げていた。 「えーと……どこかに座って話そうか」 ベンチでもないかな、と周囲を見渡したが見あたらない。これだけの規模の公園でない わけがない、さらに視界を広げようとすると千鶴さんがこう言った。 「芝生に座りませんか? 温かくて気持ちいいですよ」 女性は腰を冷やしてはいけない、などといったら千鶴さんはどんなリアクションをとっ ただろうか。 ハンカチを敷いてあげたらかっこいいかな、とも思ったが、多分俺には似合わない。俺 は芝生の上に腰を落ち着けた。千鶴さんも俺の左隣に座った。 「で、さっきの話の続きなんだけど」 「……はい」 周りには誰もいないが、俺は心持ち声をひそめて言った。 「――柏木家の《力》について、詳しく訊きたいんだ」 |